BACK TOP NEXT「皆川君……?」 彼女の小さな声が体育倉庫の中で不安定に響いた。 出ては来たもののどこに行けばいいのかわからない。 そんな感じだ。彼女の声は。 僕はことさらゆっくりと傘を畳んだ。 脇にタオルを挟んで、傘先を下に向けて、雫を振り払って、ワンタッチ式で閉められるそれを両手で丁寧に閉じた。 そうまでしても、僕は僕の早まった心臓の音を元に戻すことはできなかった。 乱雑に置かれているハードルの傍に立てかける。 薄汚れた備品の中で、青のビニル傘はそこだけライトアップされたかのようだ。 「はい」 僕は少し湿ったタオルを彼女に差し出した。 ここまでにいくらか雨を吸ってきたそれは、けれどまだ十分に役目を果たせるはずだ。 水色の毛の逆立ったタオル。 彼女はそれを見て、僕を見て、困ったように笑った。 眉を下げて、口は必死に笑おうとするけれど、目が「なに?」と訴えかけている。 彼女の手は、体育座りの形のまま、動こうとはしない。 僕は無言でそのタオルを広げると、彼女の頭に被せた。 「え?」 彼女の驚いた声も顔もきれいさっぱり知らないフリをして、僕はがしがしとタオルの上から彼女の髪を拭く。 「え、ちょっと、皆川君?」 それは僕の奇行を咎めるものでもやめさせるものでもなかった。 いきなり晴れ渡った空に、雨やんだのね?と聞いてみるようなものだった。 だから、僕はそれに「うん」と答えた。 それからは彼女は何も言わなかった。 ただ、じっと目を閉じて座っていただけだ。 年頃の男を目の前になんて無防備な格好だろう、と眉をしかめてしまうけれど、 彼女の長い睫を見られたことは僕にとってはすごくラッキーなことだったろうと思う。 ガシガシと彼女の頭を拭いたのは最初だけで、それからは髪の毛をタオルに挟んで叩くようにした。 僕の妹がよくそうしているのを思い出したからだ。 女の子の髪の毛がデリケートなことも。 髪の毛の次は彼女の顔。 くすぐったそうに身をよじる彼女の顔を右手で固定して、左手で優しく撫でるように拭いた。 耳も美容院でやってもらうような感じで水分を拭きとる。 首を竦めた彼女は色っぽかった。 最後にジャージの濡れた部分を気休めのように拭いた。 もちろん、僕の触れられる範囲で。 水色のタオルは彼女の雨を含んで、きれいな空色に色づいていた。 「終わり」 僕がそう言うと、彼女はうっすらとまぶたを押し上げた。 「ん。ありがと」 彼女は体育座りをようやく崩してぐっと伸びをすると、僕に笑いかけた。 「すごい気持ちよかった」 そして、少し横にずれるととんとんと隣を叩く。 薄汚れたマットは外用のもので、埃と泥をかぶり続けてお化けにでもなったかのようだ。 はみ出した綿が痛々しい。 僕は彼女の望むとおりに横に座った。 隣に座ってみると、彼女の小ささが目立つ。 肩の位置は僕の方が5センチほど上にあった。 「誰かに見られたの、初めてなの」 悪戯をみつかったかのようにくすくすと笑う。 今にもぺろりと舌を出しそうだ。 噛み付かないとも限らないから、そうはしないでほしい。 気の利いた返事も見つからなかったので、僕は黙って聞いていた。 「ましてや、ここに乗り込んでくるなんてさ。ほんと、びっくり」 本当にびっくりしてるのかしてないのか、彼女はただ面白そうに笑うだけだ。 肩が揺れるたびに、長い髪の毛も一緒に跳ねる。 まるで、壊れたおもちゃのように。 「帰ろうか?」 気づいたらつい、言ってしまっていた。 髪の毛がぴたりと止まる。 「なんで?」 その時はまだ彼女の声は空の雲のように自由だった。 ただ思うがままに泳ぐ雲のように、「なんで?」と思うからそう聞く。 でも、僕にはそれがすごくアンバランスに見えた。 だって君は答えを知っているんじゃないの? 僕は彼女を見返したけれど、彼女はただただ純粋に僕の口から解答を求めていた。 「泣きづらいと思うから」 僕は溜息と共に答えを吐き出した。 彼女の瞳を見たまま、それが彼女の中にどうやって入っていくのか気になって目を離すことはできなかった。 彼女の真っ黒な瞳がゆっくりと暗くなってゆく。 空に夜の帳が下りるように、彼女の瞳から色が失われる。 でもそれも一瞬のことだった。 僕が間近で彼女の瞳のみを見ていたからこそ、気づいた程度のほんのわずかな変化。 彼女はふいっと下を向くと、僕の腕に手を絡めてきた。 ドキッとしないはずがない。 これでも僕も年頃の男の子だ。 「そうゆう」こと全般に興味がないわけじゃない。 彼女は顔を上げて僕を掬い上げるように見ると、首を傾げた。 その様子を可愛いと思ってしまうのは、きっと仕方なかったと思う。 「皆川君、私の名前知ってる?」 ビニル袋を拾った時に彼女の名前を言ったのは聞こえなかったのだろうか? 僕は今一度彼女の名前を紡ごうとした。 「空…」 「ストップ」 自分の口に指を当てることで、まるで魔法のように僕の口も止まった。 指の肌色と唇の赤のコントラストがすごく艶っぽい、ということを僕は初めて知った。 「私の名前は、ソラ。ソラだよ」 彼女の、ソラの瞳が瞬く。 僕はそれを見ながら神妙に頷いた。 「ソラ」 口にのせて言ってみる。 それは、随分と長い間僕が呼んできたかのように、しっくりと馴染んだ。 「なに、みなちゃん?」 笑顔で聞き返すソラに少し面食らう。 「みな、ちゃん?」 僕は自分の指で自分を指差した。 「いや?」 ソラに聞かれて少し考えてみる。 「そうでもない」 「じゃ、みなちゃん」 ソラがなぜ僕にそんなあだ名をつけたのか、僕にはまだよくわからない。 たぶん、とか、恐らく、とか、考えられる範囲で言うと、なんて言葉を50個くらいつけて、 さらに、断じてそうであるとは言えないけれど、僕の自意識過剰だと思うけれど、 って言葉を気の済むまで付け加えてから言うのならば、ソラが僕を好きにならないため、だと思う。 もっと言ったら、男として見ないため。 女の子みたいな名前をつけて、それで彼女が僕のことを少しでも受け入れられるなら、それでよかった。 僕は、ソラにとっての太陽でありたいわけじゃないんだ。 そう、言うなら昼間の月がいい。 夜じゃなくて昼間の。 うっすらとぼやけた、舞台袖で出番を待つ脇役みたいな。 ただソラという舞台に立てるなら、それで僕はいいと思っていたんだ。 こうして、僕は「空見さん」から「ソラ」に、ソラは「皆川君」から「みなちゃん」に呼び方が変わった。 それが少しくすぐったいだなんてのはソラには秘密だ。 僕と彼女の間にできた秘密が少し嬉しい、だなんてことも。