2.僕と彼女の小雨のような秘密A

 ――ありがとう。  彼女の言葉は僕の耳に届いたけれど、僕の腕はそれを持ったまま動かなかった。  地面に落ちるはずだった雨粒たちは、空見さんという予期せぬ障害物にぶつかっては弾けている。  彼女の腕をくるりとすべって地面にたどり着く雨粒たちもいる。 「皆川君?」  空見さんが不思議そうに首を傾げた。  それをやるのは僕のほうだ。  なんで。  なんで雨に打たれてるの?  誰かに強制されたの?  風邪ひいちゃうよ?  制服びちょびちょだよ?  ねえ、なんでそんなに楽しそうなの?    いろいろな疑問とか考えとかそういったごちゃごちゃしたものが頭のなかをぐるぐるかき回す。 「濡れてる……」  やっと僕の口から出た言葉はすごく気の抜けるものだった。  それでも空見さんは笑って、嬉しそうに微笑んで、上を見上げた。 「うん。すっごく気持ちいい」  僕は彼女に雨越しに袋を手渡した。  それを受け取った空見さんは、片手でそれを守るように抱えると、僕に手を振った。 「じゃあね。皆川君」  雨の振る中、傘もささず、まるで雨の中を歩くのが普通であるかのように校庭の方へと歩き出す。    僕は教室へと戻った。  桂だけが残っていて、僕に担任からオッケーをもらって解散したことを告げた。 「皆川君も帰って大丈夫だよ」  そう言った彼女に、うん、と生返事を返す。  僕の教室が校庭に面した側にある。  学校はL字を横にした形で、校舎が校庭を囲っているから、内側にある教室からはすべて校庭が見渡せるのだ。  線のような雨が地面に突き刺さっている。  鉄砲玉のようなそれは当たったらそれなりに痛いだろう。  僕はその銃弾の嵐の奥に目を凝らした。  探しているのは、雨まみれの少女。  理解はできない。けれど、彼女の手は冷たかった。  触れた手が、冷たかったのはわかった。  僕は、雨だからと母親に無理やり持たされたタオルをひっつかむと、教室から駆け出した。 「皆川君!?」  桂の声が聞こえたけれど、そんなの知らない。  玄関口の傘置き場から自分のだと思われる青いビニル傘をひっつかむ。  登校で使っていたスニーカーは朝の雨をしみこませたまま、下駄箱にひっそりと居座っていた。  足に入れると、靴下までもが濡れてくる。  傘を差して、校庭を走った。  雨でぬかるんだ土に面白いように足跡がつく。  顔に雨が吹き付けて、目を開けるのがやっとだった。  スニーカーに水が入った。  きっと靴下はドロドロいなっているだろう。  なぜ、そんな衝動に駆られたのか。  僕は、校庭の隅にある、体育倉庫の前に立っていた。    走ったためか、制服の学ランが雨を吸って黒く光っている。  前髪の先に小さな雫がいくつもついているのが見えた。 「だって、あれで空見さんが風邪引いて、明日休んだりしたら、きっとちょっと嫌な感じになるじゃないか」  僕は独り言のように言い訳をすると、よし、と呟いて倉庫のドアを開けた。  校庭から見えたのはこの倉庫に入っていく彼女の後姿。  雨から逃げるようにこの中に入っていった彼女の姿だった。   ドアを開けると、かび臭い匂いが鼻についた。  もあっとしたこもった熱と湿気が僕に襲い掛かる。  空見さんは陸上競技用のマットの上にジャージ姿で座っていた。  どきっとした。  驚いたように振り向いた空見さんは、いつも結んでいる髪をほどいていた。  つやつやと輝いているその髪はまるで雨の妖精みたいだ、なんて思ってしまった自分が恥ずかしい。  顔にしたたる雨水は彼女の涙のようだった。  すうっと流れ落ちては消える透明な涙だ。  きれいだ、と思った。  ガラスのオブジェを見ると必ず思うように触ったら壊れてしまうんじゃないかと、思った。  それはあながち間違いではなかった。  実際彼女はこのとき壊れてしまいそうで、ずっとずっと壊れ続けてきていて、 そして、あんなに悲しい目をするようになってしまったんだと、今なら思う。  僕が彼女を見て、どきっとした理由は、何も彼女のきれいさに目を奪われただけではない。  彼女の、瞳。  雨の日の空よりも暗くて、深い色の。  焦点の合わないその瞳が、僕に笑いかけてくれた空見さんのものとは思えなかった。     僕はその瞳にこのとき既に囚われていたんだと思う。  決して雨を降らすことのできない、その瞳に。  

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