1.僕と彼女の小雨のような秘密@

2年のこのクラスになって、半年経つまで、僕はソラのことを「空見さん」と呼んでいた。 空見薫(かおる)。同じクラスの女の子。優等生。 僕の頭の中に入っていた、ソラデータはこれだけだった。 これだけで十分だった。 僕は彼女が、「空見くん」ではなく「空見さん」である、 ということがわかっていれば大抵のことは困らなかったからだ。 優等生、というのも僕が半年で得た主観的な付加事項にすぎない。 僕が「空見さん」から「ソラ」に呼び名が変わるには、ほんの一日あればよかった。 雨の降る日で、放課後に教室の掃除当番があって、なおかつゴミ出しじゃんけんに負けていれば、 僕はいつでも「空見さん」から「ソラ」と呼べるようになったんじゃないかと思う。 でも、それでも、やっぱりあの日がなかったら、 例えば、僕が校庭に佇む彼女を見つめたり、 濡れた彼女にタオルや着替えを持っていったり、 ましてや彼女が僕を「みな」と呼ぶこともなかったと思う。 雨を浴びている彼女に声をかけられるなどという奇跡が起こるのは、 たぶんあの日しかなかったと思うからだ。 僕は、あの日が雨で本当によかったと思う。 あの日、掃除当番でよかった。 じゃんけんに負けてよかった。 7月から2ヶ月くらい滞在していた夏が、やっと重い腰をあげて帰ってゆく9月の上旬。 その日は、台風の近づいた暴風雨だった。 「ごーみだしじゃんけん、じゃんけんぽん」 6つの手が中央に出される。 パーが4つにグーとチョキが1つずつ。 「あーいこで、しょ」 開いてしまった手を見て、僕は内心舌打ちをした。 中央には5つのチョキが僕のパーに向かって光線を浴びせている。 「きーまり! 皆川君。よろしく」 じゃんけんの調子を取っていた桂が僕に半透明の袋に入ったゴミ袋を手渡した。 僕の両手で抱えられるくらいの大きさ。 誰かが中に牛乳を捨てたのだろう。 雑巾みたいな匂いがする。 「じゃあ、帰っていいよな!?」 「先生に見てもらわないとだめだよ」 すでに整頓し終わった机たちの隙間を縫って、自分の席に向かっていた木村は足を止めた。 「まじ?」 「大マジ」 それに受け答えているのはすべて桂だ。 僕以外の3人の班員はそれを面白そうに見ている。 それらを尻目に、僕は教室の後ろのドアから出て行った。 ゴミだし、とは体育館の裏手にある焼却炉近くのゴミ集め場までゴミ袋をもっていくことだ。 そこで中を引っ掻き回して、分別までしなきゃならないのだから、疎まれて当然の役割だ。 しかも、今日は雨。 子憎たらしいほどの雨音と、騒いでいる風たちが、僕を憂鬱にさせる。 「2年4組いいよー」 新しいゴミ袋を持った生活委員のお姉さんと一緒にゴミを分別して、お墨付きをもらった。 あとは、ゴミの山に放り投げれば完了だ。 ゴミ集め場までは体育館の外玄関から屋根伝いに行ける。 ゴミだし用のつっかけサンダルを履いて、二つに増えたゴミ袋を抱えながらその道を歩いた。 そろそろお役目ごめんとなることも手伝って、屋根にばちばちと当たる雨の音が愉快に聞こえる。 湿っぽい風が吹き付けてくるけれど、冷たくて気持ちいいくらいだ。 ゴミ集め場にゴミを勢いよく放り投げて、ぱんぱんと手を払った。 これをしないと何だか役目を終えた気にならないから不思議だ。 ぶおーっと風が吹いた。 髪の毛が逆立って、Yシャツの裾から入り込んだ風が僕の体を冷やす。 思わず両手で自分の体を抱いて、立ちすくむとばさっと足元で音が鳴った。 ビニルの袋が僕の足にひっかかってばさばさと音をたてている。 「ん?」 肩掛け用の紐のついたビニルの袋。青と水色でチャック柄の模様が印字してあった。 持ち上げてみると、何かしらの重みがあった。 振ってみると、ぼふぼふと中で何かが暴れた。 失敬、と呟きながら僕はビニルの袋を開けた。 「ジャージか」 赤色のジャージ。白のラインが申し訳なさげに顔をのぞかせている。 僕たちの学年のジャージだ。 一緒に体育着も入っている。 「空見?」 体育着に印字してある名前が上を向いて僕を見つめている。 知ってるも何も、空見さんは同じクラスだ。 僕は辺りを見回した。 ここに本人がいなければ、問題だ。 この風に負けないよう懸命に幹にすがっている葉っぱたちが見える。 その向こうには申し訳ばかりにある校庭。 いつもは引いてあるトラックの白線が今は雨で消えていた。 こんな雨の中だ。 外に誰かがいるはずがない。 いじめ、という言葉が頭を横切る。 思わず顔が強張る。 僕は水を弾いているビニルの袋を持つと、 きびすを返そうとした。 「ちょ、ちょっと待って」 雨と風の大合奏にも負けない声に、僕は立ち止まった。 知っている声。確かに聞き覚えのある声は、僕の後ろ、校庭の方から。 「空見さん?」 振り返った僕の目に飛び込んできたもの。 彼女はさもそれが当然のような顔で、 髪の毛も制服もぐっしょり濡らして、 僕ににっこりと笑った。 「それ、私のなんだ。よかった。拾ってくれて」 白い靴下に泥が所々跳ねている。 「ありがとう」 全身が雨のようになってしまった彼女の腕をまだ足りない、とでも言うように雨が打ちつける。 彼女は、僕に雨になった手を差し出した。

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