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僕が君に伝えたいこと

 最初何の音かわからなかった。  羽虫の音のようにも聞こえるそれは、だんだんと大きくなって、  僕はやっとそれが携帯のバイブ音であることに気づいた。  自分にメールを送ってくる物好きなんて、親かセンセイの連絡網か、  不特定多数向けのチェーンメールかで、  朝の目覚ましぐらいでしか活躍する場がない携帯には少々申し訳ないがそんなものだ。  机の上に広げていた本に目を戻す。  鳴り止まない羽虫の合奏にはた、と気が付いた。  もうひとり、物好きがいる。  たぶん僕は自分が思っているよりもだいぶ慌てていたのだろう。  ベッドの脇のランプの横で光ったりわめいたりして主張している携帯に辿り着くまでに、  机の椅子に足をぶつけて、ベッドのふちでしたたかにひざを打ち、思わず壁に頭をぶつけた。  僕はベッドの上で頭を抑えながらディスプレイを確認した。    彼女だ。  少し息を整えて、通話ボタンを確認してディスプレイを確認して、  やっぱりもう一度通話ボタンを確認して僕はやっと電話に出た。 「あ、もしもし」 「……もしもし」  声の出し方を忘れていたかのようにかすれた声しか出なかった。 「ごめん。寝てた?」  それを彼女は寝ていたかと思ったようだ。  電話越しに聞く彼女の声は初めてで、  僕はいつもより近く感じる彼女の声にゆっくりと深呼吸をした。 「そうじゃないよ。電話なんてしないからさ、取りかたに戸惑っただけ」 「ああ。しなさそうだよね。電話」  彼女の明るい声に、する人がいないんだ、とは言えなかった。  彼女が言うと、本当にあたかも自分がそれを望んでいるかのように  電話をしていないだけみたいに聞こえる。 「まあね。それで、どうかした?」 「うん。まあ、ちょっとね」  彼女はそれ以上何かを言う気もないのか、携帯からは時折雑音みたいなものが聞こえるだけだった。  ただ溶けきったアイスクリームのような沈黙だけが携帯を耳から放すことを躊躇わせている。  それを振り払うかのように、何気なく机の上を見て、  何気なくそこにしか居場所がないから置かれた時計に目をやって、  何気なく一周する針を見て、僕は何気なさを装って言った。 「こんなに静かでゆっくりな夜には、ちょっと感傷的になったりもするよね」  眠っているんじゃないかと思うほど静かな無音の機械に向かって、  けれど、ひざを抱えてうずくまっているのであろう彼女を思い浮かべて、  僕は僕の中にあることさえ気づいていなかった  ありったけの優しさっていうものをかき集めて言葉を続けた。 「無性に自分の存在が信じられなくなったり、人にすがってみたくなったり、  かといって、顔色を伺わずに甘えられるほどの強さも持ってなくて」  微かな音が聞こえた。見えてはいないけれど、彼女が顔を上げたのが僕にはわかった。  彼女が言葉を引き継ぐ。いつも彼女の明るさで気づかないけれど、彼女の声はひどく細い。 「誰かを頼りにするのは怖くて、でもどうしようもなく消えてしまいたくなる瞬間があって、  それは這い上がれるかもしれないけど、でもやっぱり誰かに手を差し伸べてもらいたくて」  息継ぎをするように、もしくは躊躇うかのように、彼女は言葉を切った。 「それってやっぱり、弱いのかな?」    彼女のその言葉の裏側までよく吟味して、飴玉を口の中で転がすように  ゆっくりとその言葉を僕の中で転がして、僕はようやくそれを言葉にした。 「自分で這い上がることは確かにできるかもしれない。  それを自分でせずに他人にしてもらおうなんていうのは怠慢なのかもしれない。  でも、やっぱり一人で這い上がるのはくじけちゃうこともあるし、手がすべることもある。  そこから這い上がりたいと思っているなら、だったら、誰かに頼ったっていいと思う」  時計の針が滑らかに文字盤の上をすべってゆく。 「自分じゃ自分を慰められないよ。だから、他の人がいるんでしょう?」  一分の狂いもなくただ機械的に動くのでいいのなら、きっと誰かに助けを求めることもないだろう。 「いいんだよ。それがしかるべき人ならちょっとがんばってもらったって。  それでもし、差し伸べる手が僕のでいいのなら、  僕は君のためにちょっとはがんばりたいなって思うよ」  でも僕らは機械じゃない。いつも同じように間違いなく動けていけない。  それなら。   「あなたなら」  彼女の細い声が切れてしまわないように。 「そう、言ってくれると思ったの。それでやぱりね、手を差し伸べてくれると思うし、  それを貧乏くじだとか思わずにやってくれるんだと思うの」    僕はちょっとでも彼女の手をつかんでいたいと思う。 「それじゃ不満?」  ざわざわと雑音みたいな音が僕の耳をくすぐる。  彼女の短い髪の毛が左右に宙を舞うのが脳裏に浮かぶ。 「不満じゃない。そうじゃなくて」  彼女の細い声がかすかに震える。  電話越しでなかったら気付かなかったと思う。  そして、僕はそれを気づけたことに、彼女がこの震える声を聞かせるのが僕であることに  僕は普段何にも音沙汰のない僕の中の場所に何かが湧き上がるのを感じた。  その場所から僕の全部に向かって、広がっていく。  ああ、と声が漏れた。 「怖くないよ」  もし僕の目の前に彼女がいたら、僕は迷わず抱きしめてしまっていただろう。  僕の手の中に彼女がいないことに少し安堵して、彼女がいないことが少し寂しくて。 「どれだけ君が僕にすがろうとも、それが君の重みなら、僕は君の手を離さないよ」  彼女がひゅっと息を飲むのが聞こえた。 「君をひっぱりあげて、君を抱きしめてあげる」  僕はその言葉がなるべく陳腐に聞こえないように慎重に舌の上に歩かせてみたけれど、  それでも、その言葉は僕の中から出て行った途端、  どうしたらいいのか、と戸惑うように僕たちの間にさ迷っていた。 「ふふ」  その声を救いあげたのは彼女の笑い声だった。 「やっぱり、そうゆうの、似合わないね」  彼女が笑ってくれるなら、僕はずっとこうゆうのが似合わなくていい、と思うし、  ずっと似合わずにいたい、と願う。  でも、もう少し、僕に似合わない僕を。 「もし、僕が自力で這い上がれなかったり、  這い上がるのをあきらめていたりしていたら、君も僕を引っ張り上げてくれる?」  いつだって僕に似合わないものが僕を助けてくれるから。  僕にはいらないと思っていたものが、僕が本当にほしかったものだってわかったから。 「もちろん。私腕力だけはあるから。這い上がるのを嫌がってたって、強引に引き上げちゃう」  彼女の声から震えが消えた。いつもの彼女の声。 「ありがとう」  僕はその声を心地よく聞きながら、彼女にそう言った。  僕に本当にほしいものをくれてありがとう。  僕にこんなに似合わない僕がいたって教えてくれてありがとう。 「私こそ、あなたがいてくれて、本当に。ありがとう」  僕の存在を求めてくれてありがとう。  僕の手も誰かを引き上げられるんだと教えてくれありがとう。 「じゃあ、また明日」  彼女はそう言ったけれど、名残おしそうに携帯の表示は続いていて、  通話表示が30秒進むと、ぷつりと画面が黒くなった。  ツーツーと機械音の響くその向こうに、僕は語りかける。 「僕こそ、この想いを教えてくれて、ありがとう」  言葉でしか聞いたことなかったそれを、僕の全部を満たすそれを、  君に教えてもらえたことが、こんなにも僕を暖かくするなんて、  君に教えてもらえたものが、こんなにも僕を包んでくれるなんて、  もう少し生きてもいいかなと、  君がいるならそれもいいかな、と思える想いなんて、  僕は今まで知らなかったんだ。  愛しいと、  そう僕も思えるだなんて。  僕を引っ張り上げてくれて、  ありがとう。  僕は携帯を閉じた。  途端に時計の音が僕の耳に響いてくる。  この臭いセリフを、面と向かって君に言うには  やっぱりまだ、もう少し時間が必要みたいだ。

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