「ねえ、眠るときには何を想像する?」 そんな話をしたのはいつだったろうか? 私から声をかけたのか、彼に声をかけられたのか、今ではもうよく覚えていない。 ただ、放課後の教室。 止まない雨を見ながら、二人きりでそんな話をした。 部活が終わって帰る間際になって、私は英語の宿題を置いてきたことに気づいた。 「ごめん先帰ってて」 みんなに片手で拝みながら、教室へと駆け出す。 外は雨が降りそうで、やぼったい雲を空に張り付かせていた。 指定の肩掛けの学校かばんをリュックみたいに背負って、階段をひとつ飛ばしであがる。 ひざ下のスカートがばさばさ揺れた。 部活後ひいていた汗は皮膚の上で待ち構えていたかのように、ぶわっと噴出す。 教室の前について、息を整えることもせず、ガラリ、とドアを開けた。 思いの外軽いドアは、反動でがしゃんと音を立てる。 そう、そして、彼と目が合った。 細いフレームのメガネが蛍光灯を反射して彼の表情はわからなかった。 それは覚えている。 でも、それからが記憶にない。 私が覚えているシーンはドラマのCM後のように場面が切り替わる。 彼は机を前にして座ったままで、私は雨の振る外を見ていた。 なにしてるの?とかそういった話から始まったかもしれない。 私が言ったのか、彼が言ったのか。 でも、雨降ってきたね、と言ったのは確か私だった。 そして、おもむろに彼に尋ねたのも。 「ねえ、眠るときには何を想像する?」 彼は、そうだ、彼は何か本を手にしていた。 その本からゆっくりと顔を上げると、メガネを押し上げた。 「卑猥な妄想」 彼の口からそんな言葉が出るとは思わなくて、私は思わず笑ってしまった。 「やだ、ほんと?」 「そういう日もある」 彼は答えるだけ答えると、また本に目を落とした。 問い返す、というコミュニケーションの初歩的なものはどこかに放り投げたらしい。 それを私はさほど不快だと感じずに、自ら話し出した。 「私はね。私は大抵、暗闇を想像するかなー」 暗闇、という聞きなれたようで特には聞かない言葉に彼が反応する。 ちらりとこちらに視線を寄越した。 「想像? 創り出すほうじゃなくて?」 彼の質問に私は確か首を傾げたはずだ。 創造、と漢字を思い浮かべながら口にだしてみる。 オレンジ味だと思って舐めた飴が実はいちごだったみたいに口の中がむずむずした。 「違う、ね」 「ふうん」 彼は再び本に視線を落とした。 私は窓に近づいて雨を見た。 空の上に蛇口がついてるのを想像してみた。 もうちょっと開けばいいのに、と思うくらいの小ぶりな雨だった。 「目をつぶったらそこは暗闇のはずなのに、暗闇を想像するの?」 唐突に、彼が質問した。 そう思ったのは私だけで、実際には彼は本なんか読んでなくていろいろな思考を繰り返して、 そう聞いたのかもしれない。 「ん、なんていうか、暗闇の箱に入る感じ、かな。 世界全部にカーテンを引いて、空に黒い布を被せて、 町の明かりを全部落として、ってそんな感じ」 「……ふうん」 彼は少し考えた後、わかった、というようにそう言った。 「そうすると、どうなるの?」 わかったのは、どういう想像か、だけらしい。 彼は目を瞑りながら、私にきいた。 「そうすると、ひとりに、なる」 箱の中にぽつんと居残る私。 暗闇にだっこされる。 「……安心、だね」 「うん」 彼の瞼があがった。まつげがメガネのフレームを掠めるのが見える。 「まつげ長いね」 彼はメガネをとって少し笑った。 「そう、かな」 席を立って彼が私の隣に立つ。 手を掲げた。私の視界が途切れる。 指の隙間から光が漏れている。 「目隠し?」 笑いながら聞くと、彼は、うん、と言った。 「まつげ、あたってる」 そう?と聞き返しながら、私は彼の手の中で目を閉じた。 教室の明かりを消して、空の蛇口に黒いカバーをかけて。 「でもね、やっぱり周りに他の暗闇の箱があるから、安心するんだよ」 暗闇の箱に入る。 私は彼の入ってる箱を感じる。 「目が覚めたら、出ておいで」 触れていないけれど、彼の指の体温を感じる。 暗闇の中、箱の中で私は暖かさに目覚める。 箱から這い出して、町に明かりをつけて、世界のカーテンを開けて、 空のカバーを外して、私はぐっと伸びをする。 目を開けると、もう彼の手は目の前になかった。 「おはよう」 彼が笑う。 カーテンの隙間から見えたお日様みたい。 「おはよう」 私も笑った。 空はまだ蛇口を止める気もないらしくて、私たちはずっとそれを見ていた。