そっと目を開けると、そこには金色の絨毯が広がっていた。辺りは静かだ。 栞の足元は金色の光を放ち、その光が音すらも吸収しているようだ。 光そのものが生きているようにさえ感じる。 ゆらりとその絨毯が揺れた。何かが絨毯の下に潜り込んで動き回っているようだ。 それとも、本当に光が動いているのか。 カーペットの波は栞の方へ円を描くようにして近づいてくる。 後をつけたら螺旋状の模様が浮かび上がるだろう。 計算したかのように、その波は栞の目の前にぴたっと到着した。 波は上のほうへと膨らみを増してゆく。 徐々に縦に大きくなっていく波は、栞の膝の高さまで来るとむずむずしだした。 何だか子供が布団の中でぐずっているみたいだ。 そろりそろりと手をのばす。栞の手が金色の繭に触れようとした瞬間―― 「ボンッ」 光が弾けた。四方に飛び散る光に思わず栞は顔をかばう。 (ボンッって……。効果音自分で言ったんかい!!) 「自分で言わな、なーんか迫力にかけるやないか」 声がする。ネスのものでもましてや自分のものでもない。 硬くつぶっていた目をそっと開ける。 腕の隙間からは何も見えない。 光は既に消えていた。腕を顔から外し、きょろきょろと辺りを伺う。 (声がしたはずなのに……) 栞以外に人らしきものは見当たらない。 「こっちやって! こっちこっち」 男の子の声だ。まだ十代くらいの声。栞の、そう、栞の足元から聞こえてくる。 下を向いた。そこにいたのは―― 「か、かえる!!!!」 金色の蛙が、ぴょんぴょんと跳びながら栞を見上げていた。 「おう! やっと気いついたかい!」 蛙は栞の周りをやたらにぴょんぴょん跳んでいる。 放心状態の栞のことはお構いなしだ。 「おう、そこの嬢ちゃん、ちいっと手貸してくれんかい?」 「て?」 「そやそや、ちょおっとその可愛いおててをな、上向きに、 ああ、ちゃうちゃう手のひら上に向けてえや。 そや。それをもうちょい前に出してくれん? ん、オッケー。ほな、行くで」 蛙は満足そうにそう言うと、ぴょんと高く跳ね栞の手に飛び乗った。 栞はといえば、手のひらを上に向けて自分の目の前に出した格好だ。 (ほんとに、「手」を貸してほしかったんだ) 蛙はよっこらしょ、と呟きながら栞の手の上であぐらをかく。 (かえるがあぐらかいてる) 「あぐらくらいかかせてな。なあんも迷惑やないやろ」 (わー。かえるが文句いってる。カッカしてるとかえっちゃうぞー。 なーんつって。あははー) 「さぶ。嬢ちゃん、もうちょいましな冗談いわんと。彼氏もできんぞー」 蛙はあぐらをかいたまま呆れた声で言う。 金色の蛙。 あぐらをかく蛙。 しゃべる蛙―― 「ってなんで、かえるがしゃべってんのおー!!!?」 栞の声に金色の絨毯まで毛が逆立ったようになった。蛙が栞の手から落ちる。 ぼとっとするはずの音は絨毯が吸収してしまった。 「しかもしかも、金色だし、あぐらかくし、なんかマスターと同じに心ん中読むし」 頭に手をやりぐしゃぐしゃと髪の毛を掻き回す。 「そりゃあさ、そりゃああのエセ笑顔男がさ、 魔法使いだってのもわけわかんなかったけどさ、でも。かえる? かえるがしゃべってる? あぐらかいてる? かえるは緑だろ。 ってか、しゃべんないよね? っていうかっていうか」 「しゃっべちゃわるいんかい」 蛙と栞の声が重なった。半狂乱の栞の耳にぶすっとした声が届く。栞の動きが止まる。 恐る恐る下を見ると、ひざを抱えながら蛙が金色の絨毯に「の」の字を書いていた。 背中に哀愁がただよっている。 「そりゃーさ、わい金色だけんどもさ。そんなのいいやんけ。 金色になりたかったんやからいいやんけ。蛙があぐらかいて何が悪いん? その格好が一番楽なんや。人間はしゃべっていいのに蛙はいけないんか!? わいがしゃっべったっていいやろ!」 背中越しに蛙の目にきらりと光るものが見えた。栞はしゅんとなる。泣かせてしまった。 「ううん、いい。しゃべっていいし、金色でいいし、あぐらかいていい。 驚いたけど、確かにすごい驚いてわけわかんなかったけど、でもね」 そこですーっと息を吸う。蛙は背中を向けるのをやめて座ったままこちらを見上げた。 「たっのしいー!!!!」 こてんと蛙が横に倒れた。 「や、しゃべるかえるだよ! かえるがしゃべってあぐらかくなんて、もうサイコ―! 夢見てた甲斐があったわ。まじでいるんだもん。世の中捨てたもんじゃないよね。 あ、ちょっと何寝てるの。ほら起きて起きて。あ、私しおる。 ねえ、あなたの名前は? あ、握手して握手!」 ぶんぶんと細く小さな蛙の手を握り、大きく振る。 蛙自身が振り回されていることに栞は気づくよしもない。 「はー」 「は?」 なおも振られつづける手。上下する蛙の体。 「はなせー!」 ぱっと手が離れた。ぼとっと落ちた。音はしないけれど。 頭から落ちた。二度目の墜落だ。 「ば、ばか」 絨毯に顔をつけたまま呟いた声は栞には届かなかった。 「え? 何? ごめん。痛かったよね?」 栞がゆっくりと蛙を起こす。 しゃがんだまま蛙の顔を覗き込むように絨毯に顔をくっつけた。 「……大丈夫や」 「そう。よかった。あんなに振り回したら腕ちぎれちゃうもんねー」 なんていうか、それだけではなかったものの、まあよしとしよう、と蛙は心の中で決着をつけた。 栞のほっとした顔があまりにも嬉しそうだから。 栞の顔を絨毯がさあっとなでていく。栞はひざ立ちのまま蛙と向き合った。 「わいは、アネや。姉やないで。アの方にアクセントつけてや」 ふんぞり返ったように言うアネは今2本足で立っていた。 それでもひざ立ちの栞にのお腹くらいの高さまでしかない。 「アネ、ね。よろしく。あ、ところでここどこ? なんか気づいたらここにいたんだけど」 アネに興奮してすっかり忘れていたが、自分は確か金色の渦に巻き込まれてここに来たはずだ。 「おう! わいがここの案内人や。ここは名もなき場所。ここでしおるの名前をもらうんや!」 「名前って、魔法使いの名前?」 アネの言葉にはてな、と首をかしげる。 よくわからず円陣の中に入ってしまったが、自分が何のためにここに来たのか何も聞いていなかった、 と今になって気づいた。 「そや。なんや、しおる何も聞いてないんか?」 「うん。人間界用と魔法使い用の2つの名前があるっていうのは聞いたことあるけど、 今度また教えるって言われたし。何か知ってないとまずい?」 ぽりぽりとアネは頭をかいた。 「いんや、まずいことは何もないけどな。まあ、何にも知らないで来るやつってのが少ないのは確かや。 しおる、お前さんの上はだれや?」 上と言うとマスターのことだろう。マスターの名前は…… 「えっとね。クリス……うんちゃらかんちゃら言ってたかな? ネスって呼ばれてるって言ってたよ」 栞は首をかしげつつアネを見下ろす。そろそろ下を向いているのも辛くなってきた。 「ネス? 黒紳士クリスプフェイスメイネスか!?」 蛙はぴょんと栞のひざの上に乗る。 (黒紳士……。まさにマスターそのまんまじゃん!) 栞からしてみれば腹黒紳士だが。 「うん。なんかそんな名前だったかも。いっつもスーツ着てる」 「黒紳士がなぜこんな時期に……」 アネはあごに手をあてて黙ってしまった。そんな様子さえ人間みたいだ。 小さいころ、栞が頭の中で作った友達と本当にそっくりだ。 『あれ、しお、何かいてるん?』 『友達なのー。かえるさん』 『おお。可愛らしいなあ。ばあにも見せてくれるんか。蛙さん、何してるんや?』 『しおとあぐらかきながらおしゃべりしてるのー』 紙の上に書き出した蛙は栞の「友達第1号」だった。 いつもいっしょのかえるさん。いつからいなくなってしまったんだっけ? 「まあ、いいか。そな、しおるにはこっち着いてきてもらおか」 アネの声に栞の思考は途切れた。最近昔のことを思い出すのが多くなった。 あの腹黒紳士ネスに出会ってから。 アネはぴょんと栞のひざから降りると、ぴょんぴょんと金色の絨毯の上を歩き出した。 否、跳ねだした。 「ちゃんと着いてくるんやでえ」 跳ねるのは止めずに後ろを向きつつアネが叫ぶ。 一度に2メートルくらい跳んでいくから着いていくのが大変だ。 栞は小走りでアネの後を追う。 金色の絨毯は行けども行けども金色だった。周りの様子が変わることさえない。 砂漠の中にいきなり敷かれたみたいだ。 ただ、上に空はない。頭上は存在しなかった。 黒に塗りつぶされた空間がずっと続いている。 変わらない風景の中、アネの後姿だけが頼りだった。なぜか疲れもしない上に汗もかかない。 自分がどれくらい走っているかのバロメーターが機能せず、栞はただただ走った。 自分がこの場所から動いているかさも不安になる。見えないゴール。 進み具合さえもわからないままで走り続けるのは難しかった。 なぜ自分が走っているのかわからない。なぜ自分がここにいるのかわからない。 アネの背中が少しずつ遠くなっていく。足がもたついてくる。 もう、だめかも―― 「止まるんやない。決して止まっちゃあかん。 しお、よおく見るんや。この景色の中に何が見える?」 (おばあちゃん?) 絢子の声がした。 (おばあちゃん、どこにいるの?) 絢子の声は栞の右側から聞こえる。 聞こえるのに、栞は首が固まったかのように、そちらに顔を向けられない。 「しおが見なきゃ何も見えないんだよ。お前さんは一人かい?」 (何が見える?) 金色の絨毯。黒い空間。アネの後姿。 ほんとうに? それだけ? 「しおが見てたのはそれだけじゃなかったやろ。 朝顔も飛んだし、だんご虫はしおよりおっきかったんやろ」 そうだ。しおにはいつも友達がいた。世界は大きかった。 灰色の道路の上にはいろんなものがいた。いろんなものと遊べた。 金色の絨毯。その上にいるのは自分だけ? そうじゃない。 (ここは、草原。金色の草原には百獣のライオンと小さな泉と聳え立つ木々) 黒い空間。ここには何がある? (朝と夜の交わるところ。闇の中からコウモリが飛び出す) 私の前にいるのはアネだけ? (ライオンがゆっくりと体を起こした。ひとつ声をあげる。生き物たちが、森の中から走り出す!) 走っているのはもはや栞だけではなかった。鹿の上に乗ったサルが栞にウインクする。 シマウマは赤と黄色に染められて、ダチョウが空を飛ぶ。 (そうか) すごく懐かしい気がした。いつのまに忘れてしまっていたのだろう。 (みんな、久しぶり) 心の中で声をかける。その声が届くことを知っている。 栞の気持ちをみながわかってくれるのを栞は知っている。 みんなが笑った。 アネが急にぴたっと止まる。 「しお、着いたで」 アネが振り返った。そこには金色の絨毯があるだけ。さっきと何も変わっていない。 けれど、栞には見える。大きな石だ。岩といってもいいかもしれない。白金に輝く石がアネの前にある。 栞は石へと近づいた。他の者たちはひっそりとその様子を後ろで見守っている。 「しおる。見えるな? これに手をかざすんや。何も考えなくていい。ただ、かざすんや」 アネの言葉にひとつ頷く。 両手を白金の石を包むようにかざした。この光さえも手の中に包めたらいいのに、と思いながら。 ぼおっと石から光が漏れる。輝きが増す。栞の手を光が包んだ。 そのまま、栞の手が持ち上がった。光が栞の手を動かす。 栞の手から光が宙へと離れていく。手から離れた光は宙に浮いたまま、その形を球に変えた。 ゆっくりと小さくなっていく光。 栞は手を下ろすことも忘れ、その光景に魅入っていた。 光は栞の顔を優しく照らす。頭を撫でられているときのようにその光にすがりたくなった。 光の塊がビー玉ほどの大きさになると、放たれていた光は消え、絨毯の上に音もなく落ちた。 手にとると目の前まで持ち上げる。白金の玉がきらりと光る。 「――。 それが、お主の名前だ」 アネのものではない声。光の渦が栞の体を包んだ。