自分の部屋に帰り着くと、案の定あの男が待っていた。 もう、心の中に驚きも湧き上がらない。 ただ、勝手に部屋に入らないでほしいな、という一種の不条理だけを感じる。 「すみません。これからは気をつけますね」 とっさに何のことかはわからなかったものの、それが何に言われたのかに気づいて、 栞はなんとなく嫌な顔をする。 「ずるいよ。読むなんてさ」 「読むんじゃなくて、見えるんだといっているでしょう? それに昨日も言ったように深いところまでは読めませんから、安心してください。 そうゆうのは、見られるのを心が拒否しますから」 「昨日、聞いた。でも、なんかやっぱ嫌なの」 そう、率直に言うと男はすっと目を細めた。慈しむようなはにかむような、そんな瞳。 「似てますね」 「え?」 「いえ。こっちのことです。さあ、心は決まりましたね?」 答えをわかっている顔で、男は聞く。 「ちゃんと、約束、守ってくれるよね?」 「もちろんです」 微笑む男の顔を見て、瞳を見て、栞は小さく頷いた。 「私、あなたの弟子になるよ。栞の名に懸けて」 その言葉を言うときには、声が震えるかと思っていたのに、 思ったよりもはっきりと部屋の中に響いた。 「誓約成立ですね」 男はにっこりと笑った。どう見ても自分よりも年上の男だけれど、笑顔は男を幼く見せる。 「ルールは三つ」 ごくっと、美紗のときとは違う気持ちで、不安と緊張を飲み込むように栞は喉をならした。 そんな栞を横目で見ながら男は重々しく口を開いた。 「僕をマスターと呼ぶこと。途中で投げ出さないこと。 あとは、そんなに力まないでください。僕もやりづらいじゃないですか」 肩を怒らす栞を見て、男は苦笑する。 栞はというと、あまりにもあっけない「ルール」に足の力が抜けそうだった。 「ほ、他には?」 上ずった声で聞く栞に、男は蔓延の笑みを浮かべた。 「他? ありませんよ。それだけです」 (うそだ!!) とっさに心の中に浮かんだ言葉は、相手に読まれてしまった。 「あはははは。ほんとに面白い人ですね。あなたは。そんなに僕が信じられませんか?」 「だって、あん……貴方の笑顔は嘘臭い」 疑惑の眼差しを向けたまま、どうせ読まれるなら、と隠す気もなく栞はいった。 栞の目をしばし見ていた男はとうとう堪えきれなくなった、とでも言うように、 ぷっと言う声を漏らすと、今度は盛大に笑い出した。 「な、なによっ!?」 「い、いや……はは、そ、そういうところ、本当に……ふっふはは」 「だからなに!?」 顔を真っ赤にして怒鳴る栞を落ち着けるように男は半笑いのまま言う。 「良い勘していますよ。でも、ルールは、これだけです。本当に」 「ルールは?」 勘ぐるように聞き返してみる。 「ほんとに、あなたは……」 苦笑を返す男に栞はふん、と横を向く。 「おばあちゃんの教え。信じられると思うまで、人に気を許しちゃいかんて」 「全く……良い教育してますよ、ほんとに。 では、一体どうしたら、あなたは僕を信用してくれますか?」 そう切り返されると、栞も少し考えてしまう。 それじゃあ、と考えた末の答えは、 「名前を、本当の名前を教えてください。マスターではなく」 というものだった。 男が困ったように笑った。 (この人は、困ったときでも笑うんだな) と、栞は仕様もないことを思った。 眉を下げられるよりも、なんだか自分が悪いことをした気分になる。 「えっと、僕は、名前を二つ持っているんですが……」 「二つ?」 「ええ。一つはここの、人間世界での僕の名前。もう一つは、魔法使いとしての僕の名前です」 「魔法使いにも名前があるんですか……?」 それは初耳だと、栞は恐る恐る聞いてみる。 昨日の夜にあらかたのことは聞いたと思っていたけれど、 魔法使いの世界はまだまだいろいろなことがあるようだ。 「ええ。まあ、おいおい話してあげますから。さあ、どっちを聞きたいんです? どっちともなんてのはフェアじゃないですよね?」 思わず、開きかけかけた栞の口がしまった。 恨めしそうに男を見やると、にっこりと笑顔を返された。 「じゃあ……」 しぶしぶと栞は口を開いた。それなら、どちらを聞くかなんて決まっている。 「貴方の、マスターの魔法使いとしての名前を教えてください」 男はまぶしそうに目を細めた。最も照れ隠しに下を向いていた栞には見えなかったが。 「クリスプフェイスメイネス」 「クリス…?」 カタカナの羅列に、脳の記憶能力がついていかなかった。 途中で止まってしまった栞を見て、男は忍び笑いを漏らす。 「ネス、と皆には呼ばれます」 「ネス?」 「ええ。この長ったらしい本名で呼ばれたら、僕だってわずらわしくて嫌になりますよ」 おどけるように肩をすくめるネスを見て、 栞は肩に入っていた力がゆっくりと抜け落ちるのを感じた。 「信じてもらえました?」 ネスの言葉に頷いてから、栞は思い直して、もう一度言い直した。 「ええ。マスター」 栞がはじめてネスに蔓延の笑みを見せた。 栞の初めての笑顔に微笑み返しながら、 ネスはある人から絶対聞いて来いといわれたことを思い出す。 「えっと、じゃあマスター、私は何からやればいいの?」 マスターと言うのは何だかそれっぽくてちょっとくすぐったい。 栞は物語の中の人物にでもなった気分だった。 こほん、とネスがわざとらしくセキをする。 「えっと、その前にですね。確認しておきたいことがあります。 貴方には今現在付き合ってる方がいますか?」 「……は?」 身構えていた栞は急に肩の力が抜けた。 「何? そんなことが何に関係あるんですか?」 「気にしなくていいですから。ちょっとこれからの指針の参考です。どっちですか?」 にこにこと笑うネスの笑顔に一層磨きがかかった。 胡散臭いものを感じたが、ひとまず大人しく答える。 こんなことで約束がご破算になってしまっては悔やんでも悔やみきれない。 「……いないですけど」 (でも、なんだって私がこんなことこいつに言わなきゃいけんのだ!?) 読まれているのを承知のうえの暴言だ。声に出さないだけましってものだろう。 「……まあ、いいですけどね。そうですか。よくわかりました。 それにしても、つきあった経験もないのですか」 「――読むな!!」 断定的な言葉に顔を栞は顔に血が昇るのがわかった。 (可愛い乙女になんてことを!!) 栞を見てネスがにやりと笑う。 「そんなこと読めませんよ。カマかけたんです。乙女がこれじゃあ泣けてきますね」 ネスの言葉に栞の声が震えた。 「こんの、変態魔法使い!」 まんまとひっかかってしまった自分が悔しくてならない。 「変態とは、あまりよい言葉とは思えませんね。僕のこのどこが変態ですか?」 爽やかに微笑むネスは確かに他の人から見たら好青年美男子になるだろう。 けれど、栞の本能は囁く。あの笑顔は曲者だ。 「スーツ着てるのと、意味わかんないくらいかっこいいのと、あとそのエセ笑顔!!」 「なんか褒められてるのか貶されてるのかわからないですね。 まあ、でも、この笑顔にケチつけたのは君で3人めです」 先ほどとはちょっと毛色の違う笑顔が見える。 悪戯を思いついたときの顔というか、いいもんみーっけと言い出しそうな……。 危険信号かもしれない。咄嗟に警報が栞の頭の中で鳴り響いたが間に合わなかった。 ネスは栞の腰に手を回すと、優雅な動きで部屋の中央へと栞を促す。 そういったことに慣れていない栞はたじたじだ。 栞を部屋の真ん中まで連れて行くと、ネスはすっと瞼を閉じた。 ネスの周りの空気が変わったのが肌で感じられる。 静電気が走ったときのようにぴりっと熱が皮膚をすべるのがわかった。 ネスは呟くように呪文を唱え始めた。 「我、クリスプフェイスメイネスの名の下に請う。万物の精霊たちよ。 この者に加護を。揺るぎなき力を。真の姿をもって我の願いに応えたまえ」 ネスの黒い髪がゆっくりと上に浮き上がっていく。 気持ちばかりに床に敷かれたカーペットの上には見たこともない紋様が現れ、 光が部屋を満たす。 体の奥にある何かがざわざわと動き出した気がした。 目も開けられないほどの光が部屋中を満たすと、すうっと消えていく。 海の水が砂浜から引いていくときのように静かで鮮やかだ。 「目を開けなさい、栞」 初めてネスが栞の名前を呼んだ。低く心地よいその声にゆっくりと瞼を押し上げる。 「わあ」 目の前には言葉では語りつくせないような景色が広がっていた。 金色の光をまとった紋様の上に4人の人間が立っている。 正確に言えば宙を浮いている十五センチほどだが、 地に付かない足の先から頭までその人間たちは様々な色彩を持っていた。 紋様は、薄いカーペットの上に§の文字を横向きに連ねるようにして円陣を形作っている。 栞から見て、左にいる人間は男のようで赤の色をまとっていた。 内側からにじみ出てくるような色は炎のようにゆらゆらと揺れている。 体には獣のような毛が生えているが、顔は普通の人間と同じだ。 その斜め後ろにいるのが緑の色の女性。優しげな表情だが、 体をまとっている服はすべて葉っぱのようだ。 むしろ、体を形作っているのが葉っぱたちである錯覚さえする。 右にいる男性は青色だ。頭の上に水のリングのようなものが浮いている。 どうなっているのかはわからないが、水をジェルにしたようなものが服となって体に巻きついている。 そして、1番前にいる女性。彼女は白だ。 天女が実在したらこうなんだろうというような容姿と顔立ちである。 衣を身にまとい、背中まで伸びた髪は白か金かわからない。彼女の瞳は黄金に輝いていた。 赤・緑・青・白。4人の人間たちは円の中央を空けるようにして菱型の形で浮いている。 白い女性がネスをちらりと見るとにやっと笑った。 「我らを呼んだのはお主か。久々に呼ばれたと思ったが」 ネスは問答無用というようににっこりと笑って見せると、栞の肩をそっと押した。 「さあ。栞。中央へ歩きなさい」 言われるがままに栞は中央へと4人の間をすり抜けて歩く。夢を見ているようだった。 自分の思考回路が止まり、どこか他人事のような気さえする。 恐れよりも栞を支配しているのは純粋な興味と美への陶酔。 この世の汚いものをすべて洗い流してその美しさをこの部屋に凝縮したような景色だった。 まだまだずっと見惚れていたいくらいだ。 「彼女に加護を。そして、彼女とともに歩む名を与えよ」 4人に囲まれるように立った栞の下がぼおっと光りだす。波のように足元で光がうねった。 「え? なに?」 栞の声が発せられると同時にうずを描くように光が舞い上がる。海の上の竜巻だ。 その中心にいる栞は金色の光の中へと放り込まれた。